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    心がくしゃみをした朝 全曲解説

    この13曲には、余命宣告を受けてから死を乗り越えるまでのドラマが凝縮されている。

    傍観者から当事者になることによって「命」に対するまなざしが深まり、

    生きることへの喜びが全編にみなぎっている。

    曲はONSENS時代からリリースを待たれていた「心がくしゃみをした朝」、「ぼくの居場所」、

    「いたいのいたいのとんでけ」と、

    新曲たちが融合し、まさに原点に立ちもどったアルバムといえるだろう。

    聴きこむほどに心の扉が開かれ、「本当の自分を思い出す旅」がはじまるだろう。

     

     

    ――― 歌詞ページはこちら ―――

  • 生きづらさをかかえる若者たちへの「応援歌」、ではない。
    がんばれみたいな「応援歌」はよくあるのだが、もっとディープなむしろ「讃美歌」である。
    神のためじゃなく、きみを讃える讃美歌なのだ。オレたちが自分と思っているものは、レンタル衣装であり、その中には永遠の輪廻を旅しつづける崇高な魂が眠っている。
    オレたちは一生かけて、「自分が本当は何者であるか」を思い出す、ために生まれてきた。
    おおげさに言うと、「ちっぽけな自分」が過ごす「ダサイ日常」は、実は大いなる宇宙の進化をうながしているのである。

    「きみはきみが思うよりずっと 1000000倍もすばらしい」ということをひとりでも多くの人に気づいてほしい。

    そのためにオレは命がけで伝えつづける。

     

    2. Believe

    人は「信じる」という言葉をかんたんに使っている。自分に都合のいいところだけを「信じて」、都合の悪いところを見ると「裏切られた」と言う。
    本当の「信じる」は根本的にちがう。
    善も悪も、聖も俗も、清も濁も、強さも弱さも、真面目さも不真面目さも、成功も失敗も、幸せも不幸せも、崇高さも愚かさも、丸ごと抱きしめて「はらわたの底から人間を信じる」ことなのだ。
    きれいごとばっかり言ってる人の言葉や、愛と平和ばっかりの歌がなぜ響かないのか?
    それは人間の全体性を描いてないからだ。
    「天国に咲く花は地獄に根を下ろす」と言われるように、人は愚かしいから、愛しいのである。
    本やテレビで知識のコレクターになったり、寺で瞑想したり、絵空事のニューエージに現実逃避したりしてるより、汚物まみれの路地裏を旅したり、被災地で家族をなくした人の悲しみを目の当たりにしたほうが100万倍「はらわたの底から人間を信じる」ことができる。
    「大いなる楽観」とは、「自分の運命を100%信じる」ことであり、「どんな瞬間も最高のライフレッスンだ」と気づく。
    「ありのままに世界を受け入れる」ことであり、「ありのままの人間を愛す」ことだ。

  • 3. My life

    山を愛した親父と、詩が得意だった母親のもとに生まれたオレは、5歳とのき母と妹と別れ酒乱の親父との生活を選んだ。

    オレはガンを宣告されてはじめて自分の人生を振り返った。

    どれだけたくさんの人を傷つけ、どれだけたくさんの罪を犯し、どれだけたくさんのまちがいを積み重ねてきたことか。

    誰もがそうかもしれないが、自分の人生なんてこれっぽっちも肯定できない。

    ところが手術を終えた夜、病院のベッドで天井をながめていると、まるで走馬灯のように今まで自分が出会ってきた人たちの顔があざやかに浮かんできた。

    家族や恋人や友人や仲間や、幼稚園や小中高学校のアルバムにのった同級生たち、旅先で知り合った外国人たち、ライブにきてくれた観客、名前も覚えていない人々まで浮かんでは消える。

    一瞬、「やばい、これは臨死体験だ。オレは今死ぬのか?」と思えるほど、その不思議な現象はつづいた。

    気がつくと枕がびっしょり濡れている。

    オレは声も上げずに泣いていたのだ。

    それは罪や後悔の涙ではなく、うれし泣きだった。

    オレの人生は、こんなにもたくさんの人たちに支えられていたんだ。

    こんなにもすばらしい人たちに愛されていたんだ。

    そう気づいたとき、「オレが自分の人生を否定することは、その人たちの愛情まで否定することであり、彼らに対する侮辱だ」と思った。。

    だからオレは堂々と自分の人生を肯定する。

    世界一幸せな人生だと。

    今回の病気でいやがおうでも自分の人生を振り返ることになる。

    しかし振り返れば振り返るほど、だめだめな自分も見えてくる。

    数え切れないほど人を傷つけ、自分も傷つき、罪や後悔も特盛り牛丼である。

    もちろん傷つけようと思って傷つけるわけじゃないが、人は生きているというそれだけで、迷惑をかけ、かけられて生きている。

    これはどんな偉業を成し遂げた人も、そうでない人も同じだと思う。

    ただひとつの救いは、家族や恋人や仲間など、愛する人の存在だ。

    彼らの笑顔を思い出すたび、「こんなだめだめな自分でも生きていてよかった」と心から思える。

    この「My life」はオレだけの歌じゃなく、すっころびながらも必死で生きているすべての人に捧げる人生の応援歌だ。

    オレは世界一の幸福者だと気付くんだ。

    スリランカ人は、あたりまえのように老人に席をゆずる。

    あたりまえすぎて、無言でゆずったり、ゆずられて礼も言わないこともある。

    聖書のレビ記にもこんな言葉がある。

    「あなたは白髪の前では立ち上がるべきである。また,老人の身を思いやらねばならない」

    老人が敬われる文化は、健康だ。

    世界中の先住民文化は、祖先や老人をとても大切にする。

    彼らはあたりまえのことを忘れていない。

    「老人がいなければ、自分がいなかった」という事実だ。

    その肉体的DNAを、命のバトンを、与えてくれた者を敬えない者は、自分も敬えない。

    実際老人を見下す発言をする者は、自己肯定感の低い人だ。

    老人を見下す文化は滅びのベクトルにむかう。

    循環を拒否する文化は、持続不可能な未来を生む。

    先住民社会では、老人のもつ知恵を徹底的にしぼり取り、社会に活用する。

    とくに子供の教育は、未熟な親ではなく、老人たちが担当する。

    循環する社会は、老人に尊敬されるような役割を与え、老人も学びつづける。

    米シカゴ大学の研究によると、50歳以上の男女約2000人の健康状態を6年間に渡り追跡調査した。

    孤独感が最も強い人は、「愛されてる」「必要とされている」と感じている人よりも調査期間中に死亡する確率が2倍も高かった。

    孤独は肥満の2倍も致命的であるとの結果が出たらしい。

    オレは子供の頃、祖父母に育てられたせいか、老人フェチである。

    だから看取り士くんちゃんの気持ちがすごーくよくわかる。

    とくに老人の手フェチ。

    あれはもうグランドキャニオンより美しい。

    老人の手はタイムカプセルであり、物語の宝箱なのだ。

  • オレたちは全員神様からコトヅテを預かってこの世に生まれてきた。

    誰かにそのコトヅテを伝える使命があるんだ。

    あなたの目の前の人にこう伝えるんだ。

    「愛しています」と。

    こんなしょうもない自分には、幸せになる資格がないんじゃないか?戦争で足をもがれた子どもを見て、自分だけ幸せになっちゃいけないんじゃないか?美しいルックスと、たくさんのお金と、世間に認められる仕事をもっていなくては幸せになれないんじゃないか?

    学校教育もテレビも大人も毎秒ごとにこんな幻想を埋めこもうとする。

    幸せになる資格がいるんなら「幸せ教習所」とかつくって、 「ハッピー仮免、落ちちゃったよ」とか、「まだ中型しかないから、大型ハッピーにはなれないの」とかありそうじゃん。 

    ホームレスを指さし、「ほら、あんたなんか住むところも食べ物もあるんだから幸せよ」という。

    比較によって幸せをはかるやり方はもうひとつの落とし穴がある。

    アイドルを指さし、「ほら、あんたがいくらがんばってもあんなに綺麗になれない」という。

    自分より不幸にある人を見て幸せを感じたら、自分より幸福な人を見て不幸せになる。

    しかもホームレスやアイドルの内面も知らずに、社会的なポジションで比較すること自体が罠にはまっているのだ。

    「わたしもいつかシンデレラになる」と棚ぼたで降ってくる幸せを待っていると一生終わってしまう。

    「うわっ、ほんとに死んでれら!」にならないために、洗脳によってたたきこまれた「幸せ」の定義をひっくりかえすしかない。

    アマゾンの先住民には「幸せ」や「不幸せ」という言葉がない。

     

     比べることをやめなけりゃ永遠に幸せはこない。

     

    ONSENS時代にできた曲だ。

  • オレたちはここに集まったみんなと なにか飛んでもないことを成し遂げようとしていると感じた。大げさに聞こえるかもしれないが、ひとりひとりが時代という怪物の触覚となって世界を造りかえていく。そのためには「地球を救う」んじゃない、まず「自分を救う」んだ。

    以前沖縄から聖地巡礼の人たちがきたときにオレはこんなことを言った。

    「聖地は自分と場のハーモニーを教えてくれる。それを学んだオレたちはそれぞれ生活の場に帰り、すべてが聖地だと知る。さらに自分自身のなかに聖地があるということに気づくために聖地巡礼をするんじゃないかな」 

    自分の居場所を求めて旅をすることは、聖地巡礼に似ている。自分とちがう人々や価値観と出会うことによって、本当の居場所は自分自身のなかにあることに気づく。

    ひきこもり100万人、ニート85万人、不登校13万人、フリーター400万人ともいわれるこの時代にみんな自分の居場所が見つからずにさまよっている。

    オレ的にこの歌は他人事じゃなく、自分の心情を素直に綴った希有な詩なんだけどね。

    オレたちは自分の居場所を探して葛藤し、放浪し、悩みつづけている。ずっと求めていた宝物を手にいれたはずなのに、宝は月日とともに色あせ、また探し始める。

    居場所というのは人生の「目的」ではなく、ここじゃないどこかと探しつづけるプロセスこそが人生という学びの「目的」なのかもしれない。

     

     到達点は達した瞬間、出発点になる。 

     

    これもONSENS時代にできた曲。

    インディアン居住区を転々と渡り歩き、さまざまな長老たちから知恵を学んだ。

    死というのは最大の教師である。

    それはもっともきびしい教師だが、もっとも大切なことを教えてくれる教師でもある。

    オレ自身も両親や祖父母、友人の死をとおしてさまざまなことを教えられてきた。

    自分の体験や世界中の先住民たちから学んできたオレなりのグリーフィング(嘆き)ケアを書いてみよう。

    (AKIRAMANIAトップページにある「おすすめ集」の「臨死の科学」を参考)

    親しい人の死というのはとてつもない悲しみに自分を巻き込んでいく。

    その時期も大切なので、むりをせず思いっきり悲しみにひたる。大声で泣いたり、なにかを壊してもいい。

    やがて数ヶ月すると、死の意味を考える時期がくる。

    はじめは「もっとこうしてあげれば」とか、「わたしがこうだったから」と罪悪感や後悔のサーキットを堂々めぐりするが、やがてそこから抜け出すときがくる。

    死を真っ向から見つめなおすときが訪れるんだ。

    そうしてオレは母の死から「アジアに落ちる」、父の死から「神の肉」を書いた。

    その人が命をかけてまで伝えたかった本当のメッセージはなんなのか?

    退行催眠の膨大なデータからもわかるように、死んでいくものたちは、残されたものたちにメッセージを伝えるために、最良な時期、最良な方法を選んでいる。彼ら自身も気づかない無意識で選んでいるのだ。

    われわれ生者にできることはひとつ、「死をとおして、生を学ぶこと」だ。

    死を理解することは、とりもなおさず生を見つめ直すことだから。

    その学びは魂の準備ができてるものにしか与えられない。

    超えられないハードルは設定できないんだ。

    光そのものに帰った死者は、オレたちの心の奥底に忘れかけていた光に語りかけてくる。

     

  • 親から肉体的な暴力を受けなかったにしろ、幼児期から成長するプロセスで傷を負っていない人間はひとりもいない。子供のころころんだり、頭をぶつけたとき、親のまじないはもっともシャーマニックな治療だった。大人になってからは冷たい医師の治療しか受けられない。現代医療で肉体は回復しても、心を治療してくれるシャーマンはいない。

     

     親は自ら子を傷つけ、自ら治療する。 

     子も自ら親を傷つけ、自ら治療する。 

     親と子。

     

    それはあたかも医師と患者の役割を学習するために、わざと最悪のコンビを組まされた、宿敵の魂友かもしれない。

    世界で唯一虐待の根本まで降りていった歌。ONSENS時代にできた曲。

     

    10. 生命の樹

    3.11の翌日にガン検診にいった。今日は主治医による問診と血液検査、肺のレントゲンをおこなったが、結果は4月23日の腹部エコーと内視鏡検査のあとにわかる。テレビでは自分がまわったさまざまな場所が映し出され、血を吐いて救急車で運ばれた宮城県七ヶ浜の映像が流れた。

    するとなにか胸を締めつけられるような感情があふれてきて、涙がこぼれた。

    あのとき、家族をなくした人々も何が起こったかわからず、ただ途方に暮れている。

    オレたちも何も考える余裕もなく、ただ目のまえで悲しんでいる人のために必死で歌を運びつづけていた。

    死というのが日常的な世界で、まさか自分までが死と向き合うとは思ってもみなかった。

    オレのなかで震災と自分のガンはひと連なりの糸で、まるで神様がこう言っているようだった。

    「おまえは本当に彼らの悲しみがわかるのか?死とはなにか、生とはなにか、自分の体で思い知れ!」 そして思い知った。

     

     生きているということは、途轍もなく尊いことだと。

     

    これは自分の命と引き替えにして、手に入れた「実感」だ。だからオレは、死の悲しみではなく、生の喜びを伝えていく。

    「あなたの命はあなただけのものじゃない、もっともっと生きたくても生きられなかった者たちが必死で守りつづけてくれる希望の火なんだ」と。

  • 仏陀が悟った「縁起の理法」にはさまざまな説明がなされている。

    われわれが現実だと思っているものには実体がなく(空)、世界は「現象」として移り変わっていく。

    すべてのものは原因と結果があり、縁(関係性)によってつながっている。よってひとつだ。

    きみが自分と思っている「自我」や「自己」というのは幻想で、人間は「出会いの集合体」である。

    しょうもない出会いを重ねれば、しょうもない人間になるし、すばらしい出会いを重ねれば、すばらしい人間になる。

    出会いを人は「縁」と呼ぶ。

    「縁」は「円」でつながり、命のエネルギーは循環していく。

    君が憎しみを発すれば、君に憎しみが返り、世界は憎しみで覆われていく。

    君が喜びを発すれば、君に喜びが返り、世界は喜びで覆われていく。

    縁も見えない力によって用意されるが、それを「偶然」と片付ける者はその恩恵を取り逃がしてしまう。

    敵も身からもふくめたすべての出会いに意味を見出し、成長の糧としていけるかは、君の気づきにかかっている。

    この曲はレゲエとヒップホップをあわせたような、むっちゃハッピーなメロディーにのせて、機関銃みたいに言葉が連射される。ガンで入院中の病棟で出来た曲。

    大切なのは、生きようとする意志。

    「いつ死んでもいい」などというごたくはかなぐり捨て、叫ぶぞ。

     

     オレはこの世界が大好きだ。

     オレと出会ってくれた人間たちが大好きだ。

     オレはオレが大好きだ。

     オレは生きることが大好きだ。

     今だからこそはっきりと言える。

     生きることは喜び以外の何者でもない。

     オレは生きたい。

     生きたい、

     生きたい。

     生きて、

     生きて、

     生きぬくぞー!

     

    13. あたりまえの奇跡

    病気になって、世界が変わった

    「あたりまえ」だと思ったことが

    「奇跡」だったと気づいたよ

     

    朝、目覚めると

    「生きている」ことに感謝する

    見える目が2つあること

    息をする鼻があること

    歌をうたう口があること

    歌を聞く耳があること

    考える脳があること

    ぼくという意識があること

    手と足が自由に動くこと

    湯気の立つご飯が食べられること

    すっきりとトイレにいけること

    シャカシャカと歯が磨けること

    遠くまで歩ける足があること

    しなやかで丈夫な体があること

    太陽が世界を光で満たすこと

    はてしない空の青さがしみること

    雲たちが彫刻をして遊ぶこと

    風の子が木の葉とワルツを踊ること

    いつまでも大地がしっかりとありつづけること

    嵐の夜森の秘密が明かされること

    キラキラと川がかけっこしてること

    道ばたに名もない花が笑うこと

    雷と雨が地球を洗うこと

    星々がじっと生者を見守ること

    月の女神が命のリズムを刻むこと

    あなたとここで出会えたこと

    あなたの笑顔が永遠であること

    あなたに「ありがとう」と言えること

     

    病気になって、世界が変わった

    「あたりまえ」だと思ったことが

    「奇跡」だったと気づいたよ

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    心がくしゃみをした朝

    2012年12月リリース。13曲。2500円。